誕生から高校生時代
(昭和35年〜昭和51年) 
 幼少期から目立つ事が好きだったのか、保育園の発表会で桃太郎役に抜擢される。中学生時代は苦手な野球を避けてテニス部に在籍するも、基本的に球技は向いていないと認識する。
 高校入学後は、悪友に恵まれ勉強より遊びに熱意を傾ける。しかし、この時出来た友人関係には今も助けられる。ただ大学入試は言わずもがなの結果で浪人生活に。


東京生活時代
(昭和54年〜昭和57年)
 高校卒業後、予備校に通うが、レストランでアルバイトを始め、フードビジネスに興味を持つ。
 またこの年初めて食べたフランス料理に感動!カルチャーショックを受け、大学入試の事はどこかに飛んでしまう。 
 翌年、調理師専門学校に入学。フランス料理の道を目指すが、就職時にイレギュラーが起こり、気が付くと代官山のフランス菓子店に就職。ここでも菓子の奥深さに感動!また当時、代官山は非常にトレンディな場所で「徹子の部屋」等、テレビ番組で使用するケーキを作らせていただく。
 翌年、西麻布の老舗イタリア料理店に入店。イタリア料理の基本を学ぶと共に、料理専門書の発刊にも関与させていただく。代官山、西麻布という当時、東京でも先端的な場所での仕事は、感性を磨く意味で大きな影響を私に与えた。
 昭和57年夏、家族が体調を崩した事もあり、急遽、高浜に帰ることとなる。


帰郷 ラ・プラージュ開業〜30代
(昭和57年〜平成11年)
 昭和57年10月に父親のドライブインを業態変更。22歳でラ・プラージュを開業する。「ケーキのあるイタリア料理店」として始め、後にケーキの売上が主体となり、平成4年より洋菓子専門店に転換する。
 この間、27歳で結婚。現在、妻・長女・次女の4人家族で生活している。
 会社は、基本的に女性スタッフが多く、幸か不幸か会社も自宅も女性に囲まれる環境にある。
 対外的には、商工会青年部や自民党青年部などの活動にも参加。30代半ばより世の中の仕組みと矛盾を考えるようになる。


町議会議員〜町長選挙出馬
(平成12年〜平成16年)
 平成12年4月、一念発起し、町議会の補欠選挙に出馬。地元の皆さんや、友人・親戚の力をお借りして初当選。産業建設常任委員会委員長など要職を務めながら、自治体先進地を数多く訪問、研鑽を重ねる。そして町が継続して発展していくためにはソフト(仕組み)作りが重要であり、それを動かせる人づくりが不可欠と感じる。
 平成15年4月、町議会2期目の当選を果たすが、改めて行政トップの影響力を再認識し、平成16年1月、町長選への出馬を決意。町議会議員を辞職。同年4月、高浜町長選に出馬。
 現職相手の厳しい選挙戦を戦うが、136票差で惜敗。 


さらなる挑戦に向けた経験
(平成16年〜平成19年)
 選挙後、民間人として地域の活動を行う。平成18年には中寄区長と高浜地区区長会の幹事を務め、コミュニティの現場を体感する。また商工会理事、観光協会理事になったことで、厳しい環境に置かれている地域経済の現実を改めて認識する。
 あわせて、今後の町づくりにおいては、広い視野と企画力の必要性を感じ、東京や京都で仕事やネットワーク作りにも励む。
 新潟県の複合型娯楽施設の基本構想策定、西陣帯のデザイン、百貨店での文化催事企画(H19 そごう横浜店「京都1200年・美の継承展」)など多分野での仕事をこなし、自らのスキルを高める。
 また経済産業省の外郭団体「新日本様式協議会」では、松下電器・松下電工・大和ハウス・アキュラホーム・リリカラなど有名企業とともに「ものづくり」を考えるワーキンググループの主査として複数企業を束ねるプロデューサー活動も行っている。


高浜町のリーダーとして
(平成20年〜)
 4月に告示された高浜町長選挙に再度出馬。
前回に比べ拡大した後援会組織のお陰で無投票当選を果たす。
同年5月19日より、高浜町長として町の舵取り役を担う。